2014年1月12日日曜日

「オランダという国での『自己決定』を巡る議論」開催レポート


1月12日、門前仲町の陽岳寺にジャネット・あかね シャボットさんをお招きし、「オランダという国での『自己決定』を巡る議論」を開催しました。当日は50人以上の方にご参加いただきました。ありがとうございました。

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※レポート(感想):庄司昌彦

テーマはオランダにおける安楽死をめぐる制度と実態について。はじめに講師のジャネット・あかね シャボットさんは「頭のなかのスクリーンをすべて除去してください」と述べた。先入観や価値判断を取り払い、オランダでどのような議論があってどのような制度が作られているのか、実際にどのようなことが起きているのかを静かにうかがった。

オランダの安楽死は「本人」の「任意」かつ「熟慮の末」の「要請にもとづいて」「医師」が実施する「医療行為」だ。もちろん保険も適用される。ただし実施にあたってはいくつかの類型があるし、いずれにしろさまざまな要件を満たす必要がある。そうした条件のひとつひとつに長い長い議論があったそうで、これは相当具体的に考えぬかれた仕組みだということがわかった。

制度だけでない。実際に安楽死を行うと決めるまでのプロセスもきめ細かく丁寧に進んでいく。安楽死を望む人は、家族や医師などと何度も何度も相談を重ねる。いわゆるインフォームドコンセントだが、「情報を提供して自己決定させる」といったこの言葉から想像するものよりもずっと丁寧で、ああでもないこうでもないと迷い、考えていく、双方向の対話プロセスだということがよくわかった。そして、周囲も納得のうえで自己決定をするのでその意思は尊重される。実際、オランダの安楽死の実態を調査した米国の人類学者は「生命終結行為は全体のごく一部であり、これは対話のプロセスである。それが緩和ケアになっている」と評価したそうだ。そして、安楽死を選んだ人のほぼすべてが自分にとって「大切な人」に囲まれ、自宅で家庭医によって安楽死しているという。

こうしてオランダでは安楽死が合法化されているが、ただしこのプロセスは必ず「検証可能」でなくてはいけないそうだ。こっそりやることは許されない。透明性がなくてはいけないのだ。こうした透明性とディスカッションはオランダの伝統らしい。

シャボットさんの話をまとめると、オランダで安楽死の要請をする人は自殺願望者ではない。むしろ、自分の生はよりよいものでありたい(≒尊厳のあるものでありたい)と考える人たちである。言い換えると安楽死は「よく生きる」ことを追求した結果の結論のひとつだということだ。死は自分と周囲との関係の中にあり、しかしたとえその決定が部外者から見て「ベスト」なものでなくても、最終的には本人の決定を尊重する。シャボットさんは、「自己決定と隣人愛」ということをキーワードとして述べていた。

まだ僕は「死」「安楽死」ということをほとんど身近には考えられない。しかし、これを家族や周囲の人々との関係の延長の中にある自己決定なのだと捉えると、それはつまり今の「生」とつながっていることなんだといえると思った。

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